カミカゼを照らせ

どっかのペイガンメタラー食人蛮族の話です

恋はいいから戦友をくれよ

 私は小学生くらいの頃、「恋愛なんて女の腐ったようなのがやるやつだぜ、まったく下らねえ。漢なら戦いに生きるもんだ」みたいな謎思想を抱いており、人間にもあまり興味がなかったために主にゲームや映画の戦うロボットやクリーチャーに大変テンションをブチ上げては、始終そのことばかり考えているようなやつだった。その謎思想は高校の終盤くらいまで続いて、そこでヘヴィメタルにハマってメタル界隈の薄汚れた野郎たちを眺めている内に「あれ?男ってカッコいいな?」みたいな気付きを得て、ようやく恋愛に興味を持つようになった。まあそれも今では色々と通り越して「もう面倒なことはいいからヒゲロン毛マッチョとヤらせろや」になってしまった訳だが。結局性欲はブチ上がって男にはハマったが、恋愛にはハマらなかったのである。だってめんどくさいし。なんなのあの駆け引きみたいなやつ、そんな面倒なことやめて「ヤりたいのか?ヤりたくないのか?」「Yes/No」で決まってくれよ。それしかねえよ。え?人間関係はそれだけじゃないって?では「素晴らしい人間関係」とは何か。それは、「漢なら同胞と共に戦いに生きるもんだ」ということである。…何の事はない、小学生に戻ったのだった。

 

 Roughnecks: Starship Troopers Chroniclesを久々に見た。四枚組DVDBOXを持っていて、多分小学か中学の間くらいによく見ていた。今見ると荒いアニメーションである。しかし、内容はやっぱり好きだった。

 

これは、基本的にはお気楽戦争アニメ(?)である。いや、仲間が病院送りになったりもするのだが、あまり悲惨なことにはならない。お約束のように厄介な敵や鼻持ちならない上官との対立はあるが、あくまでアメリカ的というのか、仲間たちは最後には全員で困難を乗り越える大楕円が待っている(少なくともこの四つのシリーズでは。この後に放送されたシーズンでは徐々に憂鬱な展開になっている)。こいつを久々に見て、何より良かったのは「仲間同士で裏切ったりは絶対にしない」ということである。「仲間」というのは同じ部隊の、レイザック隊長以下の戦友たちだ。彼らはくだらないことで隊員同士いがみ合ったりもするものの、奥底ではかたい絆で結ばれている。敵が戦いに葛藤を覚えたり、胸糞悪い取引を持ちかけてくるような人情味溢れる人々でなく、生まれながらの殺戮マシンみたいなエイリアンである、という単純さもあり、胃の痛くなるような政治的駆け引きや謀略、それによる登場人物の精神の摩耗もない。

 

 この生温い気持ちはおそらく、Vikingsシーズン3まで見て心が疲れてしまった反動なのだろう。あれの初期のRagnarとLagertha最オブ高で、もう姐さん抱いてって感じ(バーサーカーなら男でも女でも美味しく頂けますありがとうございました)。あれは素晴らしい人間関係の素晴らしい例でしたね。ところが3の終わり辺りまででもうぼくの心は陰謀と裏切り祭りの”やみ”にやられてしまったので、シーズン4の購入は気力が湧くまで無期限延期です。決して推しが死んだからではない。たぶん。おれはただ永遠に同胞たちが肩を並べて戦い運命を共にするのが見ていたいんだよ、まあそんなシナリオ全くウケないだろうけど。ああお気楽戦争映画がみたい。少なくとも身内が誰も裏切らないやつ。お気楽になりたい。

 

 ”恋愛”なんてどうでもいいーーつまり、世間一般でそう名付けられてるようなやつは。あれはほんとうにめんどうくさい駆け引きみたいなもので、もう言ったとおり、おれは裏切るのも裏切られるのも面倒くさくて、Vikingsみたいにお前が国家だというのならともかく、所詮一対一の付き合いのくせになにをいちいち陰謀なんぞ張り巡らせているのかと思う。お互いに手間が増えるだけじゃないか。あれが好きか、嫌いか、あれがほしい、こうしてくれ、いやだ、イエス、ヤー、ダー!少なくともそんなこと正直に言ってしまえばいいじゃないか。だいたい相手に正直であってほしいなら、まず自分がそうである他あるのか?どうしてお互いが敵みたいな真似をしなくてはならないのだろう、俺達はこのクソみたいな人生を共に戦い抜く戦友になりたいはずなのに。時には殴り合いになりそうなバカな軽口だって平気で叩き合い、しかしいざという時には相手のためにじぶんの命だって捨てて厭わないような…もちろんそんな尊い相手を手に入れるには、やはり自分が相手に捧げるに相応しいくらい尊い何者かでなければならないのだが、とにかくわたしはそいつをずっと探している。

 

 ちなみにその尊い相手がどうやってわかるかというと、顔です。なにしろ神が「お前の運命の相手は、顔がお前の超好みのはずだ」って言ってるからね!わはははは!

魔都TOKIO、人肉肉詰め

 先日おれは祖国蝦夷を離れ、東京へと旅行した。その時たまたま、留学に来ていたフィンランド人の友人と会って話をする時間があった。一杯やりながら、彼女に日本、もとい東京はどうだいと尋ねたのだが、「森がない。」と返された。…彼女は所謂国家的田舎森と湖の国であるフィンランドの中でも、さらにかなりの僻地であるLaplandの出身である(人間より木とトナカイの方が多いとかいうネタにならないネタがある地域だ)、そう感じて不思議ではないが。

 彼女は都民の友人に、「東京の森はどこ?」と聞いたことがあるそうだ。そうしたら、「東京に森なんかないよ!」と返ってきたという。おれは東京には数度訪れたことくらいしかないが、確かに森はそうそう無かろう。彼女は続けて、どこだったか、神社かどこかを観光に行った際、小さな木立を見つけたという。そこでそのほんのぽっちりの木々を、「これは森なんだ…」と思い込もうとしてみたわ、と笑っていた。

 彼女はド田舎出身だが、別段自然に固執していたタイプには見えなかったし、むしろ日本のポップカルチャーに憧れていたり、どちらかと言うと都会に行きたいタイプに見えたから、ちょっと意外だったのだ。「No forest, no life」などと言うセリフを彼女の口から聞くことになるとは思わなかった。

 

 おれは元々蝦夷の僻地出身だ。公共交通なんか鉄道すらとうに廃止されたようなところだった。今はそこそこでかい都市へ移ってきたが、人生中において満員電車とかいうやつとは無縁だった。最近になって、ちょくちょく首都へ来る機会があり、その度にあの馬鹿みたいなすし詰めに出くわす度に、「絶対こんなところで暮らせるか?畜生」と思っている。

 さっき、ツイッターのTLに「満員電車でスペース空けて詰めないやつ、死ね。」というつぶやきが流れてきた。おれはこの間満員電車に乗る羽目になっていた時、「このクソ詰まってるのにまだ乗ってこようってのか。野郎どもイカれてやがる!」と思っていた。自分用のエアスペースが確保されていなければ人間は死ぬのである。そして各々が自分のエアスペース分の空きを確保して乗れば、こんなクソ詰めにはなっていないはずなのだ。どう考えてもそこを無理やり押し込んで乗ってくる奴が邪悪である。ところがそれが首都人の間ではそうはならないらしい。奴らにとって邪悪なのは、「スペースを空けるやつ」の方なのである。おれは、こいつら皆狂っているなと思った。

 

 おれはフィンランドに行くまで、プロのメタルバンドのライブには行ったことがなかった。わざわざ東京に出張ってまで観たいバンドなんかそもそも来日しないし、留学前は今より更に腰も重かったし。フィンランドで初めてStam1naのライブを観に行って、それからあちこちで箱やら野外フェスに行ったり最前で頑張ったりもしたものだが、どこも東京のライブと比べると信じられないほど快適だーーいや、東京のライブが信じ難いほど不快なのだが。

 首都人のメタル好きの友人から聞いてはいたが、帰国して初めて東京のライブに遠征して、「ひでぇなこりゃ」と思った。中央前列二番目くらいのところにいたのだが、トリのバンドが始まった瞬間後ろから人が皆突撃してきて、満員電車状態。そのまま一時間半だ。正直、途中で「早く終わってくれ」と思っていた。余程死にそうな顔をしていたのか、最後にヴォーカルがピックを手渡ししてくれたのが救いだった。

 …あの人フィンランド人だったしやべぇと思ったのかな、だってヨーロッパなんかどこ行っても、日本でのトリ前のバンドまでくらいの間のとり方だからな。腰落としてヘドバンでもまったく余裕である。それくらい密着してくる奴なんかいない。いないのだ。こっちで密着しているからこそ楽しいとかほざいている奴がいたが、あのツアーの時は別会場で酸欠だか脱水でショウの間にぶっ倒れた人がいたらしい。はあ、それが面白いだと?

 

 首都人はあれが普通だと思っているらしい。それとも平均的日本人の思想だとでも言うのだとしたら、それはもうあのシステムが狂っているのである。毎日毎日、鉄管に詰め込まれ凝縮されほとんど一個になりそうな肉の群れが、高速で走り回っているのだ。まるで「それが正常だ」とでもいう態度で。

 たしかに「当たり前」なんだろう。しかし「正常」ではない。彼処で暮らしているうちに、そう思い込むようになるそうだが。おれとしては、この「正常」らしい幻は、本来真っ当だった人間すら邪悪に変えてしまうというのではやく解決されるべきだと思うが、やはり難しいのだろうな。悲しい肉詰め。